私は、ギャンブルが嫌いです。

世の中に何も生み出さない。
そう思っています。

競馬も、パチンコも、賭け事全般。当然カジノもです。
金融の世界で長く働いてきた私には、そう見えます。


「嫌い」と言う前に、やってみる

私は昔から、
多くの人に支持されつつも私が嫌いだと思う事柄は、一度は体験するようにしています。(体験しやすいものに限りますが)

競馬。
パチンコ。
喫煙。
どうしても好きになれない芸術家の展覧会。

などなど

結果はだいたい同じです。
「やっぱり嫌いだった」

でも、最初から嫌いな理由を探しに行くのではなく
それらを「好き」という人に連れていってもらうんです。

好きになれる可能性を持って行くってことなんです。
だからどのように楽しんでいるかを教えてもらう、そしてその時間は一緒に楽しむ。

でも、帰宅後などにゆっくり考えてみると、やっぱり違うと思う。
その「違う」は、想像の判断じゃなく、自分の体験として刻まれます。


知らずに、断定はできない

長く金融の現場で働くなかで、ずっと胸にあり続けている違和感があります。
それは、現場を知らない人がルールを作ったり、
現場を体験したことのない人が、
「この業界はダメだ」
「こうすべきだ」
と、断定的に語る。

それはいつも的外れだったり、偏りすぎていたり、全体を語っていない。
すごく一部のこと。

現場の人は、みんな一生懸命です。

もちろん、全員が完璧なわけじゃない。
それでも、知らずに上から切り捨てる言葉は、
いつも誰かを傷つけて、何も生みださないのです。

そのような現場を知らない人からの圧力が大嫌いな私は

自分が否定的に感じることを語る前に、私なりに知ろうと思うのです。
体験しても競馬もパチンコもたばこも、その芸術家も好きになれなかった。
でも、熱中する人たちの気持ちは、わかるようになりました。
尊重しつつ、自分は距離をおく。

理解と距離を保つことは、同時に存在できる。


理解と距離

嫌いなことは好きになる必要はない。
でも話し合いが必要な場合は、その営みを理解し、尊重する。

ギャンブルが好きな人もいれば、嫌いな人もいる。
組織の現場にいる人もいれば、外から語る人もいる。

それぞれ見てる方向が違う、視野が違う、視力が違う。そう、違った景色が見えているんです。

理解と距離は、同時に存在できる。
敵か味方か、ではなく、
「違う見え方、考え方がある」というだけの話だと思うのです。

本当は、同じ業界なら、違う意見を静かに話し合って
真面目に、建設的に議論したい、よりよい金融の未来を探したい。

ただ現実には、
現場の声は届かない。
それが、悲しい。

同じ世の中で生きている存在として、
それぞれの距離を保ちながら、
尊重し合えたらいいな、と思います。

投稿者 yuki

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